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静岡のお茶の歴史は、鎌倉時代、高僧聖一国師(しょういちこくし)が中国から持ち帰ったお茶の種を生家のある静岡市足久保に蒔いたことから始まります。
以来、戦国時代・江戸時代にわたり、今川氏、徳川氏などの名将たちが静岡のお茶を珍重しました。
明治時代となった後も、牧之原など各地で茶畑の本格的な開墾が始まり、21世紀の今も、静岡は全国一の茶産地として国内はもちろん世界でも飲まれています。
     
   
 
 
お茶の発祥地は雲南省の山地といわれています。
紀元前2700年頃の書物『食経』に「茶を飲めば力が出て気分がよくなる」と書かれ、『神農草本』 にも「神農は百草を味わい、一日七十二の毒にあい、茶を得てこれを解毒する」とお茶の薬用を説いた一説が書かれているそうです。
日本にお茶が伝えたのは、仏教を学びに渡った高僧たちでした。鎌倉時代(1191年)に宋から帰国した栄西禅師(えいさいぜんじ)は、仏教とともにお茶の種を 平戸の地に蒔き、抹茶のルーツとなる製茶方法やお茶のたて方を人々に伝授したといわれます。栄西禅師の本『喫茶養生記』には「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」という言葉が書かれています。
静岡にお茶を伝えたのは、栄西禅師より 40年ほど後に中国に渡った静岡市出身の高僧聖一国師です。生家のある静岡市足久保に、お茶の種を蒔いたことから静岡茶は始まる、と伝えられています。
 
 

 
 
貴重な医薬品だったお茶は、次第に薬用よりも文化として、独特のスタイルを築いていきます。室町時代、貴族たちは、お茶を飲み当てる闘茶や茶室でのもてなしの形になどをつくり発展させ、茶の湯の文化を誕生させました。千利休による一期一会の精神文化は、その後の武士の時代にも受継がれ、日本独特の美意識となりました。
戦国時代、駿河といわれた静岡あたりを支配していた今川氏は、都の文化を積極的に取り入れていました。京都から今川氏のもとへやってきた公家たちは、茶の湯や茶菓子の風習も伝えました。静岡でお茶が栽培されるようになったのも、この頃といわれています。
戦国時代末期から江戸初期の頃には、はやくも静岡の山間部でお茶を年貢として納めていたという記録があります。
徳川家康も静岡の茶を愛し、静岡市の標高千メートルを超える山間部井川で特別なお茶を作らせていました。作らせていたのは抹茶のもとになる碾茶(てんちゃ)でした。家康は、お茶を高価な茶壷に詰めさせ井川峠のお茶壷屋敷で夏を越させ、秋になると駿府城に運ばせていました。
当時の庶民が飲んでいたのは、簡単な製法の日干し茶や釜炒り茶という製法のお茶です。釜炒り茶というのは、生葉をいきなり熱した大鍋に入れて炒ってから、ムシロの上で揉み、そのまま乾燥させるもの。世界的に見ると、今もこの方法が一般的で、静岡に代表されるような、蒸して揉む日本独特の煎茶はたいへん特殊な製法です。
 

 
 
有名な牧ノ原の大茶園は、幕末、最後の将軍となった徳川慶喜とともに駿府に移住した旧家臣たちにより開拓されたものです。拓いた土地がを、地元の農民が受継ぎ、やがて現在の大茶園へと発展しました。
長い鎖国ののち、1858年日米友好通商条約が結ばれ貿易が始まると、お茶の輸出量は急激に増え、静岡では、特にアメリカ向けに高級煎茶が盛んに作られるようになりました。1899年に清水港が開港すると、静岡茶は直接外国に輸出されるようになりました。
現在、よく聞く茶の種類に『やぶきた』があります。
これは、明治末期に杉山彦三郎という人が発見したお茶の新種です。試験園の北側の竹やぶの中に母樹があったので、やぶの北側という意味から、この名前がつけられました。
樹勢、品質ともに優れたお茶で、1953年に農林省の奨励品種に指定されました。以後、煎茶の代表的ブランドとして多くの人に愛されています。
 
 
 
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